007 ネバー・コール・ザ・ネーム(1/10) ( No.1 ) |
- 日時: 2013/12/08 14:27
- 名前: 秋山
- 大理石の床に血まみれで倒れているその男は、ボンドが守るはずの男だった。
大英博物館の名誉顧問でもある考古学者ウィリアム・カークパトリック卿は、先頃発見された中世の古文書の調査の為、ドナウ河畔に佇む街メルクのベネディクト派修道院に来ていた。 そこで、卿は何らかの身の危険を感じ、大使館を通じて本国に助けを求めて、英国秘密情報部員007号ジェイムズ・ボンドが派遣されたのだった。
カークパトリック卿は鋭利な刃物で胸部を何カ所も刺され虫の息だった。 ボンドは、頸動脈に指を添えて脈が消えかかっていることを確かめ、彼の口元に耳を近づける。 「…あの本を奪われた…」消え入りそうな声だった。「…呼ぶな…決して…その名を…呼んではいけない…」 視線が宙を彷徨い、そのままカークパトリック卿は息絶えた。 その時、修道院の裏手から車のエンジンが掛かる音が聞こえた。 ボンドは素早く立ち上がり、ワルサーP99を手に裏庭を見下ろす渡り廊下に飛び出す。 外は既に日が落ち、薄暗くなってきていた。 その時、目の前を赤いステーションワゴンがスピードを上げて走り過ぎた。 一瞬、運転席の男がボンドを見上げ、目が合った。 自分以外のもの全てに敵意と警戒心を抱いている様な暗い瞳だった。 奴が犯人だ。ボンドは確信した。 ボンドは奇妙な形の銃を取り出し、走り去る車に向かって撃った。 これは発信器の弾丸を射出する発信器銃で、Q課の装備では古典的な部類に入るものだ。 弾丸はステーションワゴンの後部バンパーにしっかりと食い込んでロックされた。 そして車は走り去り、ボンドは踵を返す。 広大な修道院の中を走り抜け、入り口に停めておいたアストンマーティンDB9ヴォランテに飛び乗り、土煙を巻き起こしながら急発進する。 コンソールのスイッチを入れると、フロントガラスに半透明の地図が浮かび上がった。 その上を点滅しながら移動する光点が二つ。 ボンドの車とあの赤いステーションワゴンだ。 ステーションワゴンはドナウ川に沿って北に向かって移動していた。
辺りはすっかり暮れてしまった。 夕方から現れた分厚い暗雲は今や空全体を覆い、月も星も見えない。 ボンドの胸にも黒く冷たい何かがのし掛かっていた。 ボンドはカークパトリック卿を守る任務を与えられ、それを果たせなかった。 敵との勝負に負けたのだ。 しかし、この勝負は始まったばかりで、どちらかが死ぬまで決して終わる事はない。 そして、死ぬのは奴らの方だ。ボンドは思った。
ステーションワゴンを示す光点が、脇道に入り河岸で停止した。 地図の倍率を上げると、そこが小さな桟橋になっていることが分かる。 後を追って同じ脇道に入ると、乗り捨てられたステーションワゴンと、今まさに桟橋から離れんとしている白い小型クルーザーがヘッドライトに浮かび上がる。 ボンドはアクセルを踏み込み、ギアをトップに入れた。 狭い板張りの桟橋をアストンマーティンは真っ直ぐに疾走する。 ボンドは、ロンドンを発つ前にQが言った言葉を思い出した。 “私を信じろ。この車は必ず役に立つ。” クルーザーの男がアストンマーティンに気付き、船の速度を上げた。 ボンドはアクセルを目一杯踏み込んだまま、桟橋の突端の手前でハンドルをほんの少し左に切る。 獲物に襲いかかる豹の様に、アストンマーティンはクルーザー目掛けて宙を跳んだ。 アストンマーティンは大きな衝撃音と水飛沫を上げながらクルーザーの後部に追突し、繋がったまま動きを止めた。 コンソールのスイッチを押すと、アストンマーティンのルーフがゆっくりと後ろに収納され始める。 ボンドは素早い動作で、フロントガラスを跨ぎ、ボンネットを伝ってクルーザーに乗り込んだ。 「確かに役に立ったよ、Q。」徐々に浸水していく愛車をチラリと振り返ってボンドは言った。 クルーザーの男は、床にうずくまって苦しそうに呻いていた。追突の衝撃でどこかに身体をぶつけたのだろう。 ボンドはデッキに落ちていた古めかしい装丁の分厚い本を拾った。 「骨董趣味だな。」ボンドは男にP99を突きつけた。「黒幕は誰だ。」 男は呻きながらボンドを見上げ、顔を歪めて言った。 「…生憎だな。俺は頼まれただけだ。」 男は皮肉っぽい冷笑を浮かべたが、突然その表情が凍り付いた。 男の目はボンドの背後の何かを見ていた。 ボンドがその気配に気付いた時は既に遅かった。 細かい棘のある触手の様な物が、一瞬の内にボンドの左手から古文書を奪い、ボンドの右手を嫌らしく撫で上げたかと思うとP99を絡め取ってしまったのだ。 ボンドが反射的に振り返ると、目の前に人型の何かが立っていた。 闇の中から生まれ出てきたかの様な真っ黒の身体。大きな蝙蝠の様な翼を背中から生やし、おぞましい形状の尻尾を揺らしている。角の生えた頭には顔が無く、表情のない空白がボンドを睨め付けていた。 その怪物は、左手に古文書を抱え、右手に持ったP99を少し弄んで河の中に放り投げた。 ボンドは、武器になりそうな物を求めて上着のポケットに手を入れてみたが、いつの間にか発信器銃も怪物の手の中にあった。 怪物は、その新しい玩具も気に入らなかったのか河に捨ててしまう。 ボンドの背後で悲鳴が上がった。 振り向けば、もう一匹の怪物が男を抱え宙に浮かんでいた。 為す術もないボンドを尻目に、二匹の怪物は音もなく大きな翼を羽ばたかせあっという間に空の彼方に消え去ってしまった。 ボンドは異常な出来事を目の当たりにして頭が混乱していたが、なるべく冷静に判断しようと努めた。 敵は一体何者なのか? 何が目的なのか? そして、あの怪物は? …まあいい。敵が何者であれ、要はぶっつぶせばいいのだ。 真っ暗な空を見上げながら、ボンドは冷たい笑みを浮かべた。
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007 ネバー・コール・ザ・ネーム(2/10) ( No.2 ) |
- 日時: 2013/12/08 14:28
- 名前: 化夢宇留仁
- 極彩色の古代の神殿のような風景のまわりから、シルエットになっていてよく見えないが、どうやらぐねぐねと嫌らしく動く大量の触手のような物が押し寄せ、視界を埋め尽くす。
その中から立ち上がる裸の女のシルエット。 それは妖しく左右に身体をくねらせて踊る。 どこかから聞こえてくる歌声。 「闇にうごめく危険な罠。でもあなたは不適な笑みを浮かべる。」 「そこは生きては帰れない場所。でもあなたは旅立つ。」 「次は運が敵に回るかも知れない。でもあなたは勝負を受ける。」 「あなたが知らないことかもしれない。でもあなたは意に介さない。」 「それがあなた。これまでのあなた。」 「そんなあなたもその名は呼んではいけない。」 「あいつの名を呼んではいけない。」 「あいつはあなたを殺すだろう。」 「あなたはあいつを殺すだろう。」 「あいつはもっとあなたを殺すだろう。」 「ネバー・コール・ザ・ネーム」 「ネバー・コール・ザ・ネーム」 「でもあなたはその名を呼ぶ。」 「ネバー・コール・ザ・ネーム」 「ネバー・コール・ザ・ネーム」 「それがあなた。」 「ネバー・コール・ザ・ネーム」 「ネバー・コール・ザ・ネーム」 いつしか女のシルエットのまわりには、形容しがたい怪物のシルエットが取り囲んでいた。 それは女を包み込むようにうごめき、やがて全ては闇の中に・・・。
「聞いているのかね。007。」 Mの怪訝そうな声に、我に返る。 ボンドは何事もなかったかのように答えた。 「勿論聞いていますよ。なぜ私がこの件から手を退かないといけないのです?」 ここはロンドンのMI6本部である。 いつものように報告に戻ったボンドだが、結果はいつものような成功ではなく、報告書を書く間も、頭の中はどうやってやつらの正体を突き止めるかで一杯だった。 しかし。 Mは眉を寄せ、心底困ったようにため息をついた。 「君は我がMI6が誇る、世界でも最高の諜報員だ。それは君も分かっているだろうし、勿論私も知っている。」 Mがこんな風に遠回しに話をするのは珍しい。いつも単刀直入で、些細な時間の無駄も嫌うのだ。 ボンドはますますこの事件に興味が増すのを覚えていた。 「だが007。人には向き不向きというものがある。この件は君には向いていないのだ。」 信じられないセリフである。こんな事件を、00以外の誰が担当するというのだ? 「どの辺が向いていないと言うのです?誰なら向いていると?」 Mはまたため息をつき、少し目を閉じて考えた後に、答えた。 「君の報告書によると、遭遇したのは恐らく遺伝子操作によって造り出された怪物か、精巧なサイボーグだろうということだったな。そしてその技術の出所から絞れば犯人の目処もつくと。」 「その通りです。どんな技術にしろ、現代最高の技術なのは間違いありません。すでに将来的にあのような物を創り出せる可能性のある研究を行っていた人物やグループの割り出しに掛かっています。」 Mはじっとボンドの目を見つめた後、視線を降ろして再び大きくため息をついたが、やがて観念したように顔を上げた。 「そういう的確な判断をする人物だからこそ、この件は君に合わないのだよ。とにかくこの件は別のチームが調査を進めている。だからこの話は終わりだ。」 一瞬ボンドの頭に熱い血が上り、その手は強く握りしめられた。 「私が護るはずだった人物を死なせてしまったのです。犯人を突き止めるのは私の義務です。」 「君の気持ちは十分に分かっている。だがこの事件にはすでに専門のチームが動いているのだ。私にもどうしようもないことなのだ。」 Mにもどうしようもないこと? これはボンドにとって衝撃だった。女王陛下の命令だとでも言うのか? 「専門のチームとは誰のチームです?まさかMI6では無いのですか?」 Mの表情はますます険しくなった。 「そうだ。わがMI6ではない。しかしこれ以上は言えないのだ。」 ボンドは大きなショックを受けた。自分に知らない組織がこのイギリスに? 「分かってくれたまえ。007。いや、ジェイムズ。」 Mの様子がいつもと違うのも当然である。彼も傷ついていたのだ。 「分かりました。では失礼します。」 そう言って退出するボンドに、Mはなにも言わなかった。
Mの部屋から出てきたボンドを見たマネーペニーは、彼の様子がいつもと違うのを感じた。 入る前より思い詰めたような表情。 その前にMから渡された命令書のこともある。 しかし有能な秘書である彼女は、勿論いきなりそれを問いただすようなことはせず、いつものように気軽な調子で話しかけた。 「ジェイムズ。これから休暇なのね。今度はどこに行くのかしら?どれくらい会えなくなるの?」 「休暇だって?冗談じゃない。仕事はこれからだよ。まずQに頼んでおいた装備をもらってこないと。」 「ジェイムズ・・・」 「なんだい?」 「私とのデートの約束はいつになったら履行してくれるのかってこと。」 「勿論今の仕事が終わった直後さ。」 そう言って彼女の手に軽くキスをし、ボンドは部屋を出ていった。 マネーペニーはため息をつき、引き出しからMの命令書を出した。 それは007に対する一切の装備提供を停止するというものだった。 これはボンドが来る少し前に、ここに政府関係者らしい男を通した後、すぐに作られた命令書だった。 Mに007が退出したらQ課に伝えるようにと言われていたのだ。勿論ボンドにも一切秘密だった。 「ごめんね。ジェイムズ。」 彼女がインターフォンに手を伸ばそうとしたところで、先にインターフォンの呼び出し音が鳴った。Mだった。 「マネーペニー。ここ10年間の00ナンバーに関する支出を再計算した書類が欲しい。各年の計算結果は使わずに、記録から再計算したものだ。」 「分かりました。すぐにご入り用でしょうか?」 「大至急だ。全てに優先して進めてくれ。」 「分かりました。」 マネーペニーの顔に笑みが広がった。 彼女は命令書を引き出しの奥にしまい込み、立ち上がって書類棚に向かうと、支出に関する記録を探しに掛かった。 計算結果の記録のメインはコンピュータになっているし、記録書類から計算しなおすとなると、ずいぶん時間が掛かるだろう。 残念ながら。
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007 ネバー・コール・ザ・ネーム(3/10) ( No.3 ) |
- 日時: 2013/12/08 14:29
- 名前: 秋山
- ボンドはQ課を訪れるのが嫌いではなかった。
Q課の装備品を「小道具」と呼びたがっているMに比べれば、むしろ気に入っていると言えた。 実際何度も命を救われた事もあるし、Qが言うように彼の道具は役に立つのだ。 ボンドはテーブルの上に浅く腰をかけ、賑やかなQ課を見回した。 すぐ目の前でアストンマーティンを数人がかりで組み立てているかと思えば、あちらではiPod型爆弾でマネキン人形を爆破させている。 「パイナップルの代わりに、アップルって事かい?」 ボンドの冗談に、Qは顔をしかめながら組立中のアストンマーティンの側に立つ。 「アストンマーティンV12ヴァンキッシュSだ。例によっていくつかのオプション装備付き。詳細はマニュアルを読んでおいてくれ。最高時速は350キロ超の特製品だ。スピード狂のお前さんにはおあつらえ向きだの車だな。たまには無傷で返してくれよ」 「善処するよ」 大げさにため息をつきながらQは傍らの銃を手に取る。 「ワルサーP99、これは説明はいらんな。それから…」 Qは別の銃を手にしてボンドに見せる。 その旧式の小型オートマチック拳銃にボンドは見覚えがあった。 「ベレッタじゃないか!」 以前、トルコの任務でホルスターに引っかけて危うく命を落としそうになった事を理由にMに取り上げられるまで、ボンドが愛用していた銃だ。 「そう、あのベレッタだ。しかし、中身には少々手を加えておる。弾丸は一発のみの単発式。本来弾倉がある部分にはプラスチック爆弾が内蔵されておる。つまり、銃はカムフラージュで、正体は爆弾というわけだ」 銃で爆弾をカムフラージュ? ボンドは訝しんだが、すぐにその使い道に思い当たった。「なるほど」 今度は腕時計を手に取り、Qは説明を続ける。 「オメガ・シーマスター・プロダイバーズ。こいつのベゼルを時計回りに90度回すと起爆装置がオンになり、リューズを押し込めばベレッタが爆発する仕掛けだ。ベゼルを反対方向に90度回すとワイヤーフックが現れ、リューズを押し込めば射出される。その上、文字盤を見れば時間も分かる優れものだ」 「そりゃ、すごい」 Qは不機嫌そうに鼻を鳴らしてから、部下に小言をこぼしに戻っていった。
「遺伝子工学やサイボーグ技術の研究者及びグループに関して各支局を当たってみたが、残念ながら今のところ収穫はゼロだ」 作戦室の大型モニターの前で、幕僚主任ビル・タナーはボンドに告げた。 「あれほどの物を作っておいて、尻尾もつかませないとはな」 「不思議なのはそこなんだ。何人かの専門家にも話を聞いてみたが、彼らは口を揃えて“そのような物を作るのは今の技術では不可能だ”と言うんだ」 ボンドが異を唱えようとしたのを遮り、タナーは続ける。 「分かってる。君が見たというのなら怪物は確かにそこにいたんだ。おそらく敵は何らかの手品(マジック)を使っているって事なんだろう」 タナーの意見に頷いてはみたが、ボンドは腑に落ちないでいた。 あの怪物には生物のような存在感があった。 あれが手品やまやかしだとは思えないのだ。 ボンドの心中を察したのか、タナーは努めて事務的な口調で話を続ける。 「奪われた古文書に関して大英博物館に問い合わせてみたが、明確な返答はもらえなかった。親父さんの言う“専門のチーム”とやらによる情報規制かも知れないな」 「MI6は係わるな、って事か。気にくわんな」ボンドは眉根を寄せた。 「それから、カークパトリック卿を殺した男だが、今朝死体で見つかったよ。死因は高所からの墜落死」 「身元は?」 「名前はオットー・エッゲブレヒト。盗みも殺しも金次第の悪党だ。特定の組織に属していた記録はない。G支局の調査で奴の足取りからいくつかの手掛かりをつかむ事が出来た。まず、奴は事件の三日前に偽名で入国した後、一度だけ人と会っている所を目撃されている。相手は黒髪、黒いドレスの美人だったという話で、この女のもう一つの特徴は、大きなメダル付きのネックレスを首から下げていたと言う事だ。メダルには非常に大きな宝石が埋め込まれていて、大時代的な装飾が施されていたそうだ。女のシックな服装とあまりに不釣り合いだったために、目撃者の多くがメダルの事を覚えていたらしい。女は昨晩、リンツの空港でプライベートジェットに乗り込む所も目撃されている。空港の記録によれば、女の名はマリア・カスタネダとなっているが、素性は不明だ」 「結局、何も分からないって事か」ボンドは不満げに唸った。 「いや、一つだけ確かな事が有る。…モーリス・フェザンディエという男を知っているな?」 「金持ちのベルギー人だな。小さな宝石商から成り上がり、いまや世界有数の大富豪。ただし黒い噂も絶えないと聞くが」 「その通り。実は女が乗ったプライベートジェットはフェザンディエの持ち物なんだよ」 ようやく灯ったかすかな灯火に、ボンドの胸は高鳴った。 「フェザンディエを追えば、謎の女にも会えるな」 「恐らく」 「奴は今どこに?」 「君が好きな場所…モンテカルロだよ」
パリのオペラ座を設計した事で知られる建築家シャルル・ガルニエの手によるグラン・カジノは、モンテカルロで最も有名な場所の一つだ。 そのベル・エポック調の豪奢な建物の周りには数々の高級車が並び、世界中のセレブリティがそこに集っている事を証明していた。 大理石のエントランスホールから中に入ると、28本のオニキスの柱と彫刻やフレスコ画が取り囲む7つのゲームルームが客を待ち受けている。 クリスタルのシャンデリアの下、一つのバカラテーブルでどよめきが起こった。 その回のゲームが始まってからカードシューの中のカードが無くなるまで、一人のバンカー(親)がずっと勝ち続けたのだ。 バンカーの男は満足そうに、やぶにらみ気味の青い目を細め周囲を見回した。 奇麗に撫で付けられた枯れ葉色の髪と、広く張り出た額。 その下の目立って大きな鼻が、男の尊大さを殊更強調していた。 他のプレイヤーたちは感嘆し、あるいは憮然としながら、次々と席を立つ。 「あんたには幸運の女神がついているようじゃな」 そう言って、最後に残った老紳士がテーブルを後にした。 「さあ、次のゲームを始めましょうか」 バンカーの男が促すが、その強運を恐れて誰もプレイヤーをやりたがらない。 「では、私と差しの勝負といきませんか?ムッシュ・フェザンディエ」見物客の中からボンドが進み出た。 フェザンディエは値踏みするようにボンドを眺める。 「掛け額は高めだがついてこれますかな?ミスター…」 「ボンド。ジェイムズ・ボンド」 フェザンディエの正面の席につき、ボンドは相手を真っ向から見返しながら、賭け札の山を目の前に積んだ。 「結構」フェザンディエは余裕の笑みを浮かべる。「ところで、ミスター・ボンド。何処で私の名を?」 「宝石王モーリス・フェザンディエの名なら誰でも知ってますよ」 「そうでしょうな」フェザンディエはまた目を細める。 「ただ、最近は宝石以外の物にも興味をお持ちだと聞きましたが。…例えば、古い書物とか」 フェザンディエの顔から表情が消え、改めてボンドの顔をまじまじと見つめた。 「何処で聞いたか知らんが、有名人は根も葉もない事を噂されるものでね」 フェザンディエの顔に笑みが戻ったが、声には微かな怒気が混じっていた。 当たりだ。ボンドはフェザンディエの反応に確かな手応えを感じた。 係員がカードの準備が出来た事を二人に告げた。 ボンドは係員に向かって無言で頷き、再びフェザンディエに視線を戻した時、いつの間にかその後ろに一人の女が立っている事に気付いた。 漆黒の髪、黒のイブニングドレス、その胸元で不似合いな大きなメダルが揺れている。 女は伏し目がちの黒く大きな瞳で、退屈そうにバカラテーブルを見下ろしていた。 「さて」フェザンディエが緑の羅紗の上に手を置く。「賭け額10万ユーロ、私のバンカーでよろしいかな?」 「結構。始めよう」
バカラは至ってシンプルなゲームだ。 2枚ないし3枚のカードの合計が9に近い方が勝者となる。 絵札はすべて0と数え、合計が二桁になった場合も下一桁しか数字を読まない。 カードシューから抜かれたカードがボンドに一枚配られ、次にフェザンディエ、またボンド、フェザンディエと双方に二枚ずつ配られた。 ボンドが自分のカードに目を走らせる。 スペードの9とダイヤの4。結果は3。 ボンドは自然な手つきで手を振ると、3枚目のカードがボンドの前に滑ってくる。 クラブの5。結果は8でまずまずの手になった。 フェザンディエは自分のカードを見て、表情も変えず無造作にテーブルに放り投げた。 ハートの5とクラブの4。ナチュラルの9だ。 「こちらは8、バンカーは9。バンカーの勝ち」係員は言った。 フェザンディエの連勝記録更新に、見物客たちは揃って嘆声を漏らす。 無表情に見つめあうボンドとフェザンディエ。 先に口を開いたのはフェザンディエの方だった。 「続けますか」その声にはあきらかに嘲りの響きがこもっていた。 「勿論。賭け額を50万に上げよう」 「結構」 ボンドとフェザンディエにまた二枚ずつカードが配られた。 ボンドはハートのQとダイヤのJ。結果はゼロ。 しかし3枚目はハートの9だった。 ボンドは内心を見透かされないように、鉄の表情でフェザンディエを見据えた。 フェザンディエのカードは、スペードのAとダイヤの6。結果は7。 フェザンディエはボンドの顔と自分の手札を見比べて、カードを開いた。 続いてボンドもカードを開く。 「こちらは9、バンカーは7。バンカーの負け」 係員のその声を待たずに、見物客から一層大きいどよめきが起こった。 「続けますか」今度はボンドが言った。 「当然だ。…いや、次を最後にしよう。賭け額は100万で如何かな?」 「結構」 その時、フェザンディエの後ろの黒服の女がフェザンディエの肩に手を置いた。 フェザンディエはチラと女を見て、その手を撫でるように軽く叩く。 そして女は胸元のメダルを握り、聞き取れないほど小さな声で何かをつぶやき始めた。 女の動きが気になったが、ボンドは配られたカードを開く。 だが、カードがよく見えない。 霞がかかったようだ。 目を凝らしてみる。 次第にカードが見えてきた。 ダイヤの7とスペードの5。 結果は2。 反射的にもう一枚引く合図をしかけて、ボンドは手を止めた。 何かがおかしい。ボンドの本能が警告を発していた。 もう一度カードを見てみる。 やはり7と5で2だ。 しかし…。 ボンドはフェザンディエを見た。 目を細めて笑っているようだが、その顔もどこかぼやけてよく見えない。 その後ろの女に目を移す。 女は変わらずメダルを握り何かつぶやいている。 見つめる女の目がボンドにはとても大きく見えた。 その時、女が眉を寄せ、顔をしかめて周囲を見回し始めた。 同時にボンドの目の前の霞が唐突に消えた。 もう一度、カードに目を落としてみる。 スペードの4とダイヤの5。ナチュラルの9だった。 先程のはフェザンディエが仕組んだ幻覚だったのだろうか。だとしたらどうやって? しかし、今はそんな事を考える必要はなかった。 手にした二枚のカードを開いて皆に見せてやるだけでいいのだ。 ボンドはフェザンディエを見据えたまま、カードを開く。 フェザンディエの笑顔が凍りつき、後ろの女を振り返った。 女は顔をしかめたまま、誰かを探すように見物客の中に消えていった。 カード係のへらがフェザンディエのカードを表に返した。 スペードのQとクラブのK。 「こちらは9。バンカーは0。バンカーの負け」 ボンドは見物客の歓声と拍手に囲まれて立ち上がった。 「幸運の女神はどこかへ行ってしまったようですな」ボンドは皮肉を込めて言った。 フェザンディエは一瞬ボンドを睨み、大きく息を吸って立ち上がった。 「見事な勝ちっぷりだ。ミスター・ボンド。運をそっくり持っていかれてしまったな」 「羽を生やしてどこかへ飛んでいったのでは?」 「調子に乗りすぎではないかね。ミスター・ボンド」 フェザンディエは射るような視線でボンドを睨み、急ぎ足で部屋を出ていった。
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