美女と野獣探訪記02
 僕はマスターにはじめて、“自慢のスマイル”で挨拶された時、毛の上からでも分かるぐらい汗をかきながら、小声で挨拶を返すのだけが精一杯だった。
 目と目が合うと、心臓が破裂しそうになった。
 恥ずかしそうに瞳をふせた僕に、マスターはわざと耳元に唇を寄せ、「おんなじ本ね」と優しく囁きかけた。
 天にも昇るような心地、というのを初めて実感した。
 からかっているだけなのは分かった。
 でも、僕はカチコチに硬直し、心臓をまるでレシプロエンジンみたいに稼動させていた。
「生命の歴史は絶滅の歴史なのよ」
 その後、マスターの経歴やら色々に驚かされた後、どういう流れかは忘れたが、生物学の話になったのだけは覚えている。
 学生食堂でコーヒーを飲みながら、マスターはとても夢のないセリフを言い放った。
「いい? 地球に現存する生物は遺伝子復元されたものを含めても、たった70万種類なのよ」
 70万が“たった”なのかは分からなかったが、とりあえず僕は頷いた。
「だけど、過去地球に発生した生物はどんなに少なく見積もっても10兆種類は下らないの。99.9%以上の生物が絶滅して消えていったのよ」
 話が壮大過ぎて、よく分からなかった。
 それに、僕はマスターの横顔を盗み見るのに忙しかった。
「ちゃんと聞いてる?」
 突然、マスターは顔を近づけてきた。
「は、はい! き、聞いてます!」
 僕は飛び上がりそうな勢いで答えた。
僕の鼻先を、マスターの黒髪がくすぐった。
 シャンプーの甘酸っぱい香りがした。
  「あの、博士」
「博士って呼ばないでくれる?」
 マスターは悪戯っぽく微笑んで言った。
「え、じゃあ・・・先輩」
「先輩もダァメ。ハイスクールじゃないんだから」
 わざとらしく甘い声を出す。
「イクユスタムさん?」
 僕はドギマギしながら聞いた。
「姓で呼ばれるのは嫌い。ラシェルでいいわ」
「そんなのダメですよ」
「ドクターは、なんか医者みたいで嫌なのよね。修士(マスター)だった頃は格好良いかな、って思ってたんだけど」
 僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「マ、マスター」
 僕は初めてマスターをマスターと呼んだ。
 マスターは少し考え込んだ後、ふと妖しげな笑みを浮かべた。
「ご主人様、っていう意味?」
 僕はドキリとした。
 ラブレターを書いている所を、その相手にを見られてしまったような気分だった。
「ち、違いますっ! あの、その、師匠って、そう、師匠っていう意味で」
 僕はみっともなくアタフタと否定した。
「あははははは」
 突然マスターはお腹をかかえて笑い始めた。
「え?」
 僕は唖然とした。
「あんた、分かりやすくて面白いわ」
「は?」
「もう、本当に可愛いんだから。あ、これから講義があるの。今度また図書館でね!」
 困惑する僕にお構いなしにそれだけ言うと、マスターは席を立った。
 数歩歩き、それからいきなり振り返ると・・・。
「あんた、明日からあたしの弟子だからね!」
 食堂中に響き渡る声でそう言ったのだった。 
 あの瞬間から、2人の立場は完全に決定した。
そう、不本意ながら『ご主人様と忠犬』と・・・。
 あの時の僕は、亡くなった祖父の言葉を思い出していた。
「お前も一人前の男になったら気をつけろよ。女は魔物じゃ」
 ハァ・・・じいちゃんの言ったとおりだったよ。
 
   
 それから僕は毎日のようにマスターと図書館で会い、安い学生食堂で食事をしながら延々と考古学や文化人類学、あるいはマスターの専門分野である理系の話題で盛り上がった。
僕はどんどんとマスターに惹かれていった。
 尊大で傲慢で限りなく唯我独尊。おおよその事には怠惰で、それでいて自分の興味があることには周囲の迷惑お構いなしな程の偏執狂的執念を燃やし、非常識でワガママで・・・。
 だが、そんなマスターはとても美しかった。
 別に外見的な美貌やプロポーションのことだけではない。内から発散される生命の鋭気と知性の無限大の輝きは、どんな歴史上の女性にも勝るとも劣らなかった。
 出会って5日目ぐらいには、デートのようなこともした。
 マスターはそれまで、男性と付き合ったことはなかったそうだ。
 中学校の時の同級生に告白されて1週間交換日記をしたけれど、マスターが飛び級のために転校して自然消滅したのが、最後だったという。
 後は告白にしろ何にしろ、全て冷たく断りつづけたそうだ。
 何しろ、付き合ったりすれば、その男とずっと顔つき合わせて2人きり・・・我慢できる相手というものには限度もある、そうマスターは思ったのだそうだ。
 そして、マスターの我慢の許容限度というのは、常人より大分コンパクトだった。
 マスターは、毛深い男が嫌いだった。筋肉のつき過ぎた男も嫌いだった。色黒な男も嫌いだし、背が自分より低いのも嫌だという。
 性格的に嫌いなタイプの男も多い。
「黙って俺について来い、なんて言われたら、黙って車道に押し出してやりたくなるわ」・・・そう真顔で言う人だ。
 僕は毛むくじゃらで、引き締まった筋肉質の身体つきで、色も黒かったし、背もマスターより少し低かった。
 けれど、マスターは僕を「一目見て気に入っちゃった」と言ってくれた。
 僕が喜んだ?
 喜ぶわけがない。
 僕はヴァルグル人だ。
 マスターの実家で飼っていたハスキー犬の“リューイ”に似ていて可愛い、なんて言われて喜べるわけない・・・。
マスターが、自信とプライドに満ちたような男らしい男には、うっとうしさを感じてしまうのは、それは個人の自由だ。
 だけど、「その少しオドオドとした態度が素敵」って、それって本当に誉めてるんだろうか?
「そういえば“リューイ”も強そうな外見とは裏腹に、とっても臆病な犬だったわ。やっぱり似てて可愛い」
 悪気がないだけ始末が悪い・・・。


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