美女と野獣探訪記05

 まあ、そんな愚痴を言いつつ、僕はマスターとの交際を楽しんでいた。
 日々、大昔の伝説のことや、遠い星の生物のことばかりを話して笑って過ごした。
 逆に世の中は騒然としていた。戦争に向けて一直線に進んでいたような時代に、気楽な連中がいたものだ。
 今思えば、よくそんなに安穏と、悠長に構えていられたものである。
 事実、その翌翌年に僕は徴兵されて、戦場に送られたわけだが、その頃はそんなこと少しも考えていなかった。
 本当に楽しかった。
こんなこともあった・・・。

 

 僕は学費やアパート代の調達のために、バイトを始めた。
 繁華街の割と高級なレストランのウェイターだった。バイト料は安かったけれど、晩飯と夜食が出るというのが決めた理由だ。
 黒いズボンに白いシャツ、蝶ネクタイ、そんな格好をするのは生まれて初めてだったので、フロアに出ると自然と緊張した。
 マスターが僕の働いている姿を見ようと店にやって来た。
 僕は止めてくれと言っておいたけれど、心の中ではマスターが見に来てくれるのを望んでいた。僕の正装した所を見てもらいたかったし、美しいマスターを他の人に見せびらかしたい気もしたからだ。
 僕はマスターの席に注文を取りに行った。
 革表紙のついた豪華なメニューをマスターにうやうやしく差し出した。
 マスターはやはり誰よりも美しかった。
 出会った時には黒く染めていた髪の毛を地毛の栗色に戻し、印象が数倍ゴージャスになっていた。
 白磁の肌、凛々しい眉、長い睫毛、生き生きとした鳶色の瞳、高く通った鼻、形の良い淡紅色の唇、端麗な顎先、ミニスカートから細く長く伸びた絶妙の脚線美・・・美の女神に祝福されたような、という形容詞を全身で体現している。
 店の中のあちこちから、視線が集まる。僕は誇らしい気持ちになった。
 けれど、マスターの僕を見た時の瞳が、冷たい色を含んでいる気がした。

 「こちらのコースが、本日のお奨めになっておりますが」
 僕は教えられた通りの丁寧な口調で言った。
 マスターの形の良い眉が、ピクリと動いた。
「・・・それでいいわ」
 マスターは少し不機嫌に見えた。
「他に何か・・・」
 言いかける僕をマスターは「いらない」と一言で遮った。
 やはり機嫌が悪いようだ。
 僕はまたうやうやしく礼をして、席を離れた。
 料理を運んでいっても、マスターは視線すら合わせようとしなかった。
 僕はマスターの不機嫌の理由が気になって、なかなか仕事が手につかなかった。
 それで、僕はミスをしてしまった。
「ちょっと、グラスが空よ」
 僕は年配の女性のお客さんに呼び止められた。
「す、すみません」
 僕はそのテーブルに急ぎ足で近づき、ワインをグラスに注いだ。
「さっきから、どれだけ待っていたと思ってるの? それに、すみません、て何? この店では従業員にちゃんとした言葉遣いも教えていないのかしら?」
「申し訳ありません」
 僕は慌てて言い直し、頭を深く下げた。
 その時、僕はワインのボトルをグラスにぶつけて倒してしまった。
「何するのよ!」
 女性客の金切り声が響いた。
「申し訳ありません!」
「申し訳ないで済むとでも思ってるの!?」
 僕はひっぱたかれた。
「もう、下品なヴァルグル人がいる店なんて嫌だっ・・・!」
 女性客は最後まで言うことが出来なかった。
   いつの間にかここまでやって来ていたマスターに、頭からワインをかぶせられたからだ。
 ヒステリックに叫ぶずぶ濡れの女性客を、腰に手を当てた尊大な態度で一瞥し、鼻で笑って無視すると、マスターは僕に向き直った。
「さっきから何だか気に食わなかったんだけど、このオバさんのおかげでやっと理由が分かったわ」
 マスターは僕の首から蝶ネクタイを引き剥がした。
「チューリ、あんたはあたしだけに仕えて、あたしだけの言うことを聞いてればいいの。他の人間にペコペコする必要なんかないわ」
 マスターはそう言い放つと、テーブルに100Cr紙幣の束をバサッと投げ出した。
 お金を投げ出す。そんな下品な行為をこんなに華麗にできる人を、僕は他に知らない。
「洋服代と、店への食事。あとは迷惑料よ」
 それだけ言うと、マスターは僕の腕を引っ張って店を出た。
「明日から、うちのホームキーパーのバイトをしなさい」
マスターは僕にそう言うと、颯爽とした足取りで歩き始めた。
 傲慢で非常識だとは思ったけれど、ここまで堂々とワガママを言われると、逆に怒る気になれない。
 それに、この時のマスターは神々しいほどの威厳に満ちていて美しかった。
「分かりました」
「それでよろしい」
 楽しそうにマスターが笑った。
 次の日から、僕はハウスキーパーの職にありついた・・・いや、召使いかな?
   
「次の休み、どうしたい?」
 マスターの所で働き始めて3ヶ月目のある日、僕はいつものようにマスターからショッピングのお供を命じられた。
 休みにどうしたい、と聞かれてなぜショッピングのお供が決定なのか?
「あ、自然史博物館の特別展示が変わってる! チューリ、あんたこれ見たいでしょ? 見たいわよね? じゃあ、午前はここに行って、昼食はシーフードがいいから37区の『グロセスター・ハウス』にしましょう・・・そういえば40区に新しいショッピング・モールが出来たのよねぇ。午前はあんたの博物館に付き合うから、午後はあたしの買い物に付き合ってね。荷物多くなったら持ってくれるわよね?」
 と、何も意見を言う暇も無くこうなるからだ。
 もっとも、こういう不条理にはすでに馴れきっていたし、抵抗しても無駄なのは十分に承知していたから、僕は黙って頷き、有り難くお買い物にご同行させていただいた。
 ところで、マスターのお出かけの足は、ただでさえハイパワーな高級サルーン、ベレンガリアS−600をレーシングメーカーのレガット社が丹精篭めてチューニングしたものだ。
「数々のレースで目覚しい活躍を続ける弊社が、最新のチューニングテクノロジーを結集して作り上げた究極のマシン。これこそ、最高級のスポーツカーが持つ高い走行性能と最高級のセダンの持つ快適な乗り心地を両立した、至高のエア・ラフトです」
「完全フルチューンのエンジンは圧倒的パワーを実現。心を躍らせるトルクフルで豪快、かつ洗練された思いのままの走りと心地よさ。かつてない驚異的なハイパフォーマンスを、心行くまで味わっていただけます」
 セールスマンは、そんなに自分の会社の製品の高性能を褒め称える前に、それを買う人間の人格をまずチェックするべきではないだろうか?
 アドルフ・ヒトラーに権力を与えた古代のドイツ国民と、マスターにこのエア・ラフトを売ったセールスマンは、同じ罪を背負っていると思う。
 本当に、助手席に乗る人間の身になって商品開発やセールスをして欲しい・・・。
 僕はマスターの車から降りると、いつも生きていることの素晴らしさを実感する。
 この日も、明るい太陽が僕の死線からの帰還を祝ってくれていた。
 マスターの車に乗ることで、僕の心臓は着実に耐久年数を減らしていっていると思うんだが・・・。
 博物館は文句なく楽しめた。
 特別展示の“ハイヴ連邦展”は想像したこともない未知の生物や文化を数々紹介してくれていたし、常設コーナーの60万種類の動植物達はまだまだ見終わりそうになかった。
 結局、博物館に長居して、レストランに入ったのは夕方近かったが、これは僕達の間ではよくあることだった。
 すっかり空腹ということもあってか、マスターは今日見た様々な生物のことなどを熱く語りながら、ものすごい勢いでテーブルの上の食事を消していった。
 本当にマスターは見ていて気持ちいいほどの食べっぷりを披露してくれる。
 運動もそれ程しないのに全然太らないのだから不思議だ。
 人間の脳は大量のエネルギーを消費するというけれど、マスターの脳は高性能な分著しく燃費が悪いのかも知れない。
 そして、マスターのショッピングが始まった。
 1軒目のデザイナーズ・ブランド店で、新作の冬物スーツとコートを購入した。サラリーマンのボーナスが軽く吹っ飛ぶような値段だった。
 2件目は靴屋。いかにもベテランといった風情のシューフィッターを呼び、1時間かけて綿密に相談しながらオーダーメイドする。お値段は2600Cr也。
 3件目は高級下着のお店・・・僕はいつも断固外で待つことを主張するのだけれど、毎回中まで連れ込まれてしまう。店内では下を向き、冷や汗を流し続けた。
 4件目と5件目はまた洋服。コレクション出品作というイブニングドレスと、すごく大胆な真紅のスーツ。お値段は・・・気が滅入るから止めておこう。
 そろそろお帰りかな、と思ったところでマスターは僕を連れて一軒の宝石屋に入った。
「次はここですか?」
 両手に荷物を持ち、完全に召使いと化している僕に、マスターは小さな紙袋を手渡した。
「何です、これ?」
「あんたの給料」
「今月分はもう貰いましたよ」
「そうじゃなくて、今まで渡さないで預かってた分。3ヶ月で660Cr」
 僕にはそんなもの身に覚えがなかった。
「そんなの聞いてませんよ」
「言ってないもの」
「・・・」
 マスターは、訳が分からずにいる僕を無視して、ショーケースに近寄って一つの指輪を指した。
「あ、これ欲しいな」
 わざとらしい棒読みのセリフ口調だった。
 値段は・・・660Cr。
 僕は納得できた。
「ええと、プレゼントしましょうか?」
 僕は求められているだろうセリフを口にした。
 そして、マスターは当たり前のように、こう言った。
「受け取ってあげるわ」
 僕に代金を支払わせると、マスターは指輪をその場で自分の左手の薬指にはめた。
 驚く僕の耳を引っぱって、唇を寄せてこう言った。
「給料の3ヶ月分て言葉、知ってる?」
 固まった僕を見て、マスターを思い切り笑った。
「嘘よ、安心なさい」
 僕はホッとしたような、ガッカリしたような、ちょっと不思議な気持ちになったのだった。


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