ある日の航海日誌5

『君の普段食べているものを言ってみたまえ。君がどんな人間かあててみせよう』
                    ブリア・サヴァラン「美味礼賛」より

フィカルゼは船が港に着くと、シルバー・メタリックの愛車を駆り、レシプロ・タービン・エンジン特有のサウンドを響かせて街の市場へと向かうのが習慣だった。
 次の航海で船客に振る舞う料理のための食材を探すためだ。
 出航初日から、朝・昼・晩・朝・昼・晩・・・と20食以上のメニューを飽きさせないように考えて組み立てていく。
 フィカルゼはそもそも、ベローチェ号に整備士として雇われている。
 だが、アモーレ、マンジャーレ、カンターレ、つまり、愛すること、食べること、歌うことを最大の喜びとしているこの男、ほとんど料理長か専属歌手といったほうがいい仕事ばかりしている。
 こういうタイプは自分も退屈しないが、他人も退屈させない。身体に染み付いているのは他人をもてなすサービス精神の極地というもので、それはもちろん人に媚びたりおもねったりすることを意味するのではない。

 イッガリアは自転軸の大きな傾きの影響を受けて、季節の変化が激しい星だ。ベローチェ号がこの星を訪れた時、季節は丁度夏の真っ盛りだった。
 市場には農耕中心の惑星らしく、様々な食材が並んでいる。
 フィカルゼは頭の中から次々とレシピを引き出しながら、店を行き来した。
 まずは前菜として使う生ハムを買い込む。豚の腿肉の塊に岩塩と黒胡椒をすりこんで寝かせただけの簡単な料理だが、二年以上かけてじっくりと熟成された逸品ともなると、その味は折り紙付だった。
 念の為、薄く切ったものを試食してみると、ねっとりと舌に絡みつき、柔らかくとろける。完璧だ。
 サラダやスープを作るために新鮮な野菜を選ぶ。そしてパスタを作るための良い小麦粉を買い求め、メイン料理にするための肉や魚を、まるで宝捜しでもするように市場を歩き回って探していく。
 最後に料理に合わせるワインを納得するまで飲み比べて数本選んだ。
 その中でも特に、数ある銘品を袖にして最終的に選んだ8Crの安いテーブルワインがあった。果 実味があってとても飲み易いのに、味はしっかりしている所が気に入ったのだ。
 宇宙港への帰り道、思い立って地図を見ながら湖を探した。何か一品、食材となる魚を調達していこうと考えたのだ。
 トランクに常備している釣り具をセットする。
 口説いたり、すかしたり、なだめたり、時には焦れて罵ったり、怒鳴ったり、また口説いたりと、釣りは女を扱うのに似ている。
 苦心の末、数匹の見事なブラウン・トラスト(鱒)を口説き落とすのに成功し、フィカルゼは戦場となるキッチンへと向かった。
 料理は時間との闘いそのものだ。素材を活かすも殺すも全てはスピードとタイミングにかかっている。

 大葉を敷いた皿に生ハムを切り分け、茹でたアスパラガスを合わせて、シルビアに船客たちの待つダイニングへ運ばせた。
 各テーブルでは、新入りのアリーナが食前酒を提供してまわっている。
 続けてスープを冷蔵庫から取り出し、皿に注いで出す。
 皮を剥き種を取り除いた、トマト、オニオン、キュウリ、ピーマン、ガーリックをフード・プロセッサーにかけ、オリーブオイルとワインビネガーを加えて、塩・胡椒で味を整え、冷やしておいたものだ。
 パスタは大鍋に大量の湯を用意して一気に茹で上げなければならない。アルデンテはパスタの命である。特にフィカルゼは、ちょっと固すぎると思うぐらいを歯で味わうのが最高、という哲学を持っている。
 そのために湯が完全に沸騰するのを待つ。
 その間にレタス、バジル、マーシュを手でちぎってサラダにする。
 別の小さな鍋で沸騰させておいた湯の中に貝を落として、リズム良くきっかり三秒で引き上げ、今度は素早く冷水に漬けて身を引き締める。
 これをサラダに載せて黒酢とオリーブオイルのドレッシングをかける。
 貝入りサラダはキリキリに冷やした白ワインと一緒に運ばせる。

 パスタ用の湯が沸騰したので、塩を軽く一握り、続けてパスタをほぐしながら投入する。パスタは小麦1Kgに卵6個、それにオリーブオイルと塩を少しだけ混ぜ合わせた手打ちのスパゲッティーニ。
 パスタの量と湯の割合、茹で時間はデリケートに味に関係してくる。
 パスタを茹でるということは神聖な行為であり、およそ人として二親に愛されて育ったほどの者であれば、決して茹ですぎたりしてはならない。
 アルデンテは聖書よりも信奉するべき一条なのであり、茹ですぎパスタは万死に値するのである。
 だから、情熱の全てをパスタに傾け、一心不乱にパスタと愛し合わなければならない。一瞬一瞬が男女の仲に似た真剣勝負だ。
 パスタの茹で加減を見ながら、ソースに取りかかる。
 サワークリームに隠し味としてウォッカを入れ、火にかけると、アルコール分は飛び仄かな香りとコクだけが残る。そこにレモンの絞り汁と皮をすりおろしたものを入れて手早く混ぜ込めば、レモン風味ソースが出来あがる。
 パスタが茹で上がれば、あとはソースでからめるだけだ。
 古の偉人ロッシーニは言った。パスタを茹で、上等なソースと和え、食卓に供するにはただ知性のみが要求される、と。
 ロッシーニの御加護か、本能的知性の賜物か、どうやらフィカルゼは今回も万死を免れた。

 

「お客さんたち、皆喜んで食べてるよ〜」
 シルビアが皿を運びながらダイニングの様子を報告した。
 軽くうなずき、ラストスパートへと取りかかる。
 アンディーブをピリ辛のトマトソースとからめて炒めたものを出し、全体の流れの中でのアクセントにする。
 いよいよメインのトリュイト・オ・ブルーに取りかかる。
 白ワインと酢をベースに、オニオン、にんじん、レモン、パセリ、ローリエ、タイムに塩・胡椒のクールブイヨンでブラウン・トラストを煮た料理だ。表面 がさっと青みがかるのでこの名前がある。
 ソースもこのクールブイヨンと白ワイン、エシャロット、香草を使い、オリーブオイルで仕上げたもので、エストラゴンの香草がアクセントとなり、魚もソースも彩 色されて食べごたえある。
 この料理だけは自分でダイニングへと運ぶ。
 シルビアとアリーナがそれぞれのテーブルに皿をセッティングする中、器に盛られた鱒と料理法について説明する。
 セッティングが終わったころ、鱒の皮を切り、血合いの部分を丁寧に取り除く。そしてフィレにおろして、クールブイヨンの中の野菜を添えて、それぞれの皿に盛り付けていく。
 シルビアがソースを皿に流し込む。アリーナが空いたグラスを探してワインを注ぐ。
 最後にデザートとして、ビューリアというイッガリア産の果物をシャーベットにして出し、コーヒーと、希望者にはペパーミント・マティーニをサービスして、ディナーは終わった。

 キッチンへと戻ったフィカルゼは一人静かにワインを注ぎ、一口に飲み干した。
 意識が過去へ飛ぶ。
 あの湖で・・・落ちていく陽、下がっていく気温、冷気で身体がこわばり、指先の感覚も無くなっていく中・・・黙々とルアーをキャスティングし、湖面 を見つめ続けた。
 船客に出すには、すでに十分な鱒を手に入れていた。
 だが、不思議と帰る気になれなかった。
 なぜ鱒でなければならないのか? それは鱒が好きだからだ。
 正確にはブラウン・トラスト。学名サルモ・トルッタ。
 ブラウン・トラストは目に美しく、心に興奮を呼び、精神を刺激し、舌を楽しませてくれる魚だ。しかも魚の中で最も利口で用心深く、最も手強い。
 ゆえに魅力的な存在として、数々の惑星の湖に放流され人々の生活の中に根付いている。
 そして・・・その熱い出逢いの瞬間がやってきた。
 ずっしりと重い、確かな手応え。夢にまで見た手応えだ。
 見事な一匹のメスだった。全身が金色に輝き、赤い斑点が夕日を受けて鮮やかに光った。
 その幻想的な美しさは、例えようのないものだった。
 だが、彼女は今、三枚におろされ、すでに冷凍庫で凍っている。
 フィカルゼは彼女の体をそっと取り出し、刺し身状に切ってそっと皿に並べた。ほどよく冷凍が戻りかけたところを、まだ少し芯が凍っているぐらいで食べる。
 この気持ち、分かってもらえるかな?
 ついに得た最愛のものを食べてしまう・・・。
 これが魚に魅せられた者の業の深さ。アングラーがアングラーであるゆえん。
 愛しているよ。君の全てを愛している。僕にできるのは、君を食べることだけかもしれないが・・・そう、それでも愛している。
 いや、本当のところはもっと深いものがあるのだが・・・。
 シルビアに話せば、分かってくれる?
 いや、女には分からないかな?
 壁一枚を隔てた外は、虚空の世界、満点の星空。
 分からないだろうなぁ、女には。
 この寂しさ。

 

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