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製作総指揮/ジョン・ブラッドショー、リンダ・オープスト
製作/スティーブ・スターキー、ロバート・ゼメキス 共同製作/カール・セーガン、アン・ドルーヤン
原案/カール・セーガン、アン・ドルーヤン 原作/カール・セーガン
監督/ロバート・ゼメキス 脚本/ジェームズ・V・ハート、マイケル・ゴールデンバーグ
撮影/ドン・バージス 編集/アーサー・シュミット 美術/エド・バリュー
音楽/アラン・シルベスリ 衣装/ジョアナ・ジョンストン 視覚効果/ケン・ラルストン
出演者/ジョディ・フォスター、マシュー・マコノヒー、ジョン・ハート、トム・スケリット、
デビッド・モース、ウィリアム・フィシュナー、ロブ・ロウ、アンジェラ・バセット

ジョディ・フォスターの大ファンの、なななさんのお勧め。
・・・ということで、少々は色眼鏡が掛かっているのではないかと予想していた。

それがよかったのか?
もうこれが滅茶苦茶に面白かったのだ!!!
ゆったりとしたテンポで始まり、じわじわとストーリーが進むにつれ、 首根っこをつかまれたかのように惹きこまれ、いいところで掛かってきたマッドハッター氏からの電話も、話もそこそこで切っちゃった(笑)。

どこが面白かったのか?
まず濃厚である。
1カット1カットが小説のページをめくるような感覚で、情報量が多く、少しの見逃しも我慢が出来ない。
これは主演女優の演技力の影響も大きいだろうが、「羊達の沈黙」を観た時の感覚と似ていた。
謎の大金持ちのキャラクターが、 「羊達の沈黙」の天才殺人鬼と似てたせいもあるだろう。

またゆったりと始まると書いたが、これはまさに計画的なもので、進むにつれてテンポはどんどんヒートアップしてゆく。
見事に策にはまった化夢宇留仁は、瞬きするのももどかしい状況に追い込まれた。

こういう惹きこむ演出がうまい作品に限っては、落ちなんかどうでもよくなる。
とにかく観ている時間が楽しいのだ。
その間に考えることは、集中したい。それだけである。

それにしてもゼメキスにこんな演出ができるとは知らなかった。
元々カット毎の情報量は多い監督だったが。


魍魎の匣
京極夏彦

「もうりょうのはこ」と読む。京極堂シリーズ第2作である。

今回は箱の中の少女というイメージを骨子に、様々な要素を詰め込んだにぎやかな作品になっている。
何がにぎやかかと言えば、まず文体がにぎやかである。
ほぼ語り部関口氏の一人称で統一されていた前巻とは異なり、今回は色々な登場人物の一人称が交差し、更にそこに三人称っぽいものが混ざり、挙句の果てには劇中小説のインサートまでが紛れ込んで、のんびり読んでいると何がなにやら分からなくなってくる。

ミステリ小説として構造的に考えると、前巻よりも普通にミステリの形を成しているようにも思える。
ただし前巻にもあった見る者による状況把握の違いによるトリックは、前ほどでないにしろ、今回も使用されている(劇中小説の件)。
これは賛否が分かれるところだと思うが、化夢宇留仁は今回は雰囲気を出すのに役立っていて、よかったと思う。
前巻のはちょっとあんまりではないかと思ったが・・・・(汗)。

またミステリとしてこの作品を成立させている要素は、それぞれのキャラクターの視点による回想&思い込みでカムフラージュして、時間のずれに気付かなくさせている点だと思うのだが、これはどうなのだろう?
あまりミステリを読まない化夢宇留仁には奇異に思えたが、よくある手段なのだろうか。

とかなんとか、読んでない人にはチンプンカンプンなことを書き連ねてきたが、これも例によって下手に内容を説明すると、あっという間にネタばれになってしまうこの作者の特性のせいだと思って勘弁していただきたい。
ただし繰り返すが、前巻に比べるとだいぶミステリらしい仕掛けは成されている。
ちょっと噴飯ものの(笑)。
とか言いつつも楽しく読めてしまったのは、やはりキャラクター小説だということだろうか?

あと今回はずいぶん猟奇的な内容でもある。
作中で「これを猟奇的だなどと考えてはいけない。」なんて主人公が言ってるが、作品として考えると、やはり極度に猟奇的な内容である。
「ほう・・・」と言うのですよ!箱の中の少女が!!!???
失礼(笑)。

最後にホームズにおけるワトソン的な立場の関口君だが・・・前回はキチガイ扱いされていたのだが、今回ははっきり言って、ただのバカに成り下がっている。
まわりの友人達の態度も、 前巻では少し気遣っている風だったが、今回は「関口君にしては」など、ひどいことを平気で何度も言われており、バカの代名詞状態。
「関口のくせに生意気だ!」というセリフが出てくるのも時間の問題かもしれない・・・・(汗)。

セリフで思い出したが、今作では明らかな水木しげるのパロディーが出てくる。
ルポライターの鳥口氏が、「フハッ」と言って、鼻から大量の息を吐き出す、という描写があるのだ。
化夢宇留仁は腹を抱えて笑ってしまったのだが、果たしてこれは真面目な小説として、許されるのだろうか?
京極夏彦が水木のファンだということは聞いているが、だからこそ、これは問題があるのでは・・・?
ちょっと考え込んでしまった化夢宇留仁なのだった。

なんだか取り留めの無い内容になってしまったな。
今度こそ最後に、化夢宇留仁のマイブームはしばらく「みっしり」だったのは言うまでもない(笑)。


 

アンネの日記 完全版
アンネ・フランク/深町眞理子訳

最近よく思うのだが、化夢宇留仁はいろいろな面でかたよっている。
基本的に来るものは拒まず、なんでも吸収したいと考えているのだが、どうもそれだけでは足りないらしいと気付いたわけだ。
例えば文学もそうで、色々古典とか名作とか、すでに一般教養に組み入れられてそうな作品は、思いつく限りジュブナイルを除いてなにも読んでいない。

なんかこれではいかんと思い始めた。
そこで、これから5冊に1冊くらいの割合で、そういう作品も読んでいこうと思った。
その1冊目が本作である。

何でこの作品が選ばれたかというと、ちょうど完全版の文庫が出たところだったので、目に付く機会が多かったのだ。
他に理由を考えてみれば、前から2次大戦のヨーロッパには興味があり、それを一般市民(この作品の場合、あまり一般的とも言えまいが・・・)の視点で見た雰囲気とか、ディティールに触れたかったのだ。

読み始めてまず思ったのは、アンネが普通の女の子だ、ということだった。
日記開始時点では、すでにユダヤ人への弾圧は始まっており、それも加速度的にひどくなっている最中なのだが、アンネ一家はまだ隠れ家に潜んではいない。
アンネは普通に学校へ通い、クラスメイト達と楽しい日々を送っている。
まず誕生日に日記帳をもらって、これを書き始めたことが書かれ、次に彼女が書いたのは、いかにも女の子らしい、友達とクラスメイトの紹介である。
この辺もう実に女の子という感じで、 自分がまるで女王様であるかのように、クラスメイトみんなの欠点を書き連ねている。それは好意をもっている相手に対しても容赦なく、公平と言えばそうなのだが、それよりもむしろ彼女が世界の中心であると思っていることがより強く感じられる。

などと呑気な感じで紹介が終わってからは、週末に友達とピンポンをして遊んで、そのあとでアイスクリームを食べる話など、その辺の中学生の女の子と何ら変わることはない。
しかし、そうした中にもすでに彼女のおかれた異常な環境は影響を表してきている。
当時ユダヤ人への弾圧は、一般社会生活をまともに行えないレベルまで進んでいたのだ。
例えばアンネはユダヤ人学校に通っている。これもそれまで言っていた学校には行けなくなったので、小学7年生になる代わりに入ったのだ。
それ以外にもユダヤ人の入っていい店は限られていたし、夜間の外出も禁止、そして例の黄色い星。あれもすでにつけるのが義務付けられていたのだ。
何気なく読んでいるとそんな暗い部分は感じさせないが、それは彼女自身がまだはっきりと認識していなかったのと、それがすでに当たり前のことであり、わざわざ書くに値しなかったのではないかと思われる。

さて、そうこうする内、フランク一家は隠れ家に移り住むことになる。
前もって父親から聞かされてはいたものの、予定が早まったせいもあり、日記からも彼女の混乱と戸惑いが感じ取れる。
しかしこの辺が悲しみに満ちた描写になっているかというと、そうではない。
どちらかと言えばお祭り騒ぎ的な、そう、まるで一家で旅行にでも行ったかのような、高揚感さえ漂っている。
この辺逆にリアルで、読んでいても身につまされるものがあった。
その後の運命を知っていれば、なおさらである。

いざ隠れ家での生活が始まると、日記はそこでの生活と、アンネの内面的心情描写が主になる。
それも無理の無い話で、隠れ家と言ってもそれなりの街中で、誰もいないと思われている建物の中に住んでいるわけだから、その存在を隠しつづける努力はすごいものがある。
カーテンはほんの少しも開けてはならないし、物音はもちろんゴミも不用意に捨てられない。
そんな生活を送っていれば、書くことが限られてくるのも道理である。

面白いのがフランク一家と一緒に隠れ家に移り住んだファン・ダーン一家と、その後一人追加で入ってきた歯医者のデュッセル氏との家族ぐるみの係わり合いである。
なにしろ一歩も外に出られない状況での付き合いである。そこに生まれるのは、強い連帯感・・・・・・と言いたいところだが、そうではなく、ストレスである。
顔を合わすごとに文句を言い合い、お互いの人間性を否定し合う。そんな毎日を送ってゆくのが延々と描かれ、そのまま読んでいると、隠れ家に来たのは最悪の人間ばかりではないかとさえ思える。
しかし逆に考えれば、ストレスが生まれるばかりで解消されることの無い状況にしては、みんな仲良くやっている方である。
ここに集った8人が偶然鉄の意志を持っていたのか、それともヨーロッパ全体が文化的、意識的に進んでいたのかと考え、どうやら後者の方ではないかと思えた。
自分の意見をはっきりと認識できる教育、または環境が当時からすでにヨーロッパにはあったのかと考えると、少し今の日本が情けなくなったりするのだった。

日記ならではのリアリティを感じたことに、アンネのペーター(同居していた夫婦の一人息子)への恋心がある。
ペーターに対して、最初はまったく興味がなく、それどころか欠点ばかりが見えていたアンネだが、次第に惹かれてゆき、一時期は彼のことしか考えられないような状態に陥る。
これは他に対象になる相手がいない環境によるものなのが明らかで、恋心というのは結局種の繁栄のための本能の働きなのだと再認識させられた。
またペーターを理想化していた時期がすぎると、今度は逆に彼に対する不満が表面化してくる。
ここでも恋心というのは本能と脳内物質によるもので、そのタイミングを逃せば、これと言った理由も無く消失するものなのだと思わせた。

さて、この8人の中でも特にボロクソに描かれているのが、歯医者のデュッセル氏なのだが、どうやらこれはストレスのせいだけではなく、実際彼が問題の多い人間だったのも大きな理由のようである。
描写される行動のどれをとっても、アンネの主観で書かれているという事を差し置いても、自分は客観的だと思い込み、かつ自分に甘い性格がうかがい知れる。
化夢宇留仁には「アンネの日記」と言う本の最後のページ(あとがき&解説も含めて)まで読んだ時、彼、デュッセル氏が最も強い印象を残した。
彼は日記の中で、延々と嫌な性格を書き連ねられ、 後半には化夢宇留仁はもはやそういうキャラクターとして、認識していた。
つまりテレビマンガに出てくる困った嫌な奴、になっていったのだ。
いったんそういうキャラクターだと認識されれば、その言動、行動どちらもそのフィルターを通して見られることになる。
ところが本を最後まで読み進み、あとがきに入ると、隠れ家がゲシュタポによって踏み込まれた、その後の8人の運命が、あっさりした文章で書かれている。
例えばこうである。
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アルベルト・デュッセルことフリッツ・プフェファーは、ブーヘンヴァルトとザクセンハウゼンの両収容所を経て、ノイエンガンメ強制収容所に送られたのち、1944年12月20日、そこで死亡している。
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マンガのキャラクターは死なない。特にそれがギャグマンガに出てくる嫌な奴ともなると、絶対に死なない。
しかしこの作品でそうしたキャラクターだといつの間にか思っていたデュッセル氏は死んだのだ。

化夢宇留仁はここで、すっかり頭の中でディフォルメされてすっかり組み上げられていた彼らのキャラクターが、それは実は現実の、生身の人間なのだと思い知ることになった。
本文とあとがきの相互作用という感じか。
とりあえずいろいろな面で、現実を再認識させてくれる本だったのは間違いない。

ところで、隠れ家が踏み込まれ、上記デュッセル氏が死亡するまでわずか4ヶ月弱しか経過していない。
他の人も似たり寄ったりで、もちろん全員健康だった。
丸2年以上にわたって隠れ家で喧喧囂囂していたのが、たかだか数ヶ月で(一人を除いて)死んでいるのだ。
日常生活と死のあまりの近さに違和感を感じてしまうところだが、例えそれがドイツに占領されていなくとも、これが現実なのは間違いない。


 

フランス幻想民話集
植田祐次/訳編

化夢宇留仁の勤める本屋の1階下の古本屋さん。そこの100円ワゴンセールに埋もれていたところを、そのタイトルと、寒々しい表紙に惹かれて思わず手にとってしまった。

で、読んでみたのだが・・・・・・なんだかすごい内容である。
マッドハッター氏は化夢宇留仁がこれを読んでいるのを見て、最近その手の本は気が滅入るので読まないようにしていると言っていたが、なるほど納得(汗)。
確かに気が滅入る・・・と同時に気が狂いそうになる(笑)!!!

なにしろ口伝えで適当に形作られてきた民話集である。そこには落ちも演出もあったものではなく、もちろんドラマツルギーなど持ち合わせていようはずが無い。
例えば「マリア」では、モテモテの美しい女マリアが、騎士に化けた悪魔にたぶらかされる。
悪魔は馬に乗り、彼女の髪をつかんで引きずって走る。どんどん走る。
山を越え、谷を越え、海上までも。
マリアは道中、海の怪物に少しずつ食いちぎられてゆき、最後には首だけになってしまう。
海を渡り終えると、地獄の門が開く。
以上。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
!?!?!?!?!?!?
とまあこんな感じで、話の中でそれぞれのキャラクターに役割というものが定められておらず、結果因果関係も曖昧で、めまいのするような話のてんこ盛りになっているのだ。
これは幻想民話集だということが原因だろうか?
確かに幻想的と言えばそうなのだが、それでいいのか!?
何かが間違っているような気がする・・・・(汗)。

こうしてクラクラしながら読んでいたのだが、フランスまたは北ヨーロッパ独特の異国情緒(?)のようなものが感じられて、面白いところも多かった。
例えば上記で悪魔が走っているが、 悪魔に限らず亡霊など、この世のものでない連中はなぜかよく走る。走りまくる。
そしてパワフルである。
「煉獄からの復讐」では、次々と女を誘惑しては棄てた猟師リカルドが、女達の亡霊に仕返しをされるのだが、これが荒っぽい。
彼女たちはリカルドを引きずり、森や断崖を突っ切って駆け、それぞれの女達の家へ連れて行く。
そしてみんなでリカルドを殴りまくる(汗)。
いったん気が済むと、次の家へ行き、また殴る(汗汗)。
全員の家をまわって最終的にはリカルドの生まれた村の教会へ行き、 楡の大木の前で、みんなで踊る(汗)!
一緒に踊らされていた猟師は(汗)、疲れと打撲のために死んでしまう。
・・・・・・
なんだか亡霊の呪いというより、ヤンキーの集団リンチっぽい(笑)。
しかしどうやらこういうのが、あちらでは一般的な亡霊の振る舞いらしく、似たような展開は他の話にもいくつか出てくるのだ。

ひどい目にあわせるという描写は、結局は当時実際に目にすることが出来た行為の延長であるケースが多いものと思う。
民話を形作った当時の民衆が、そんなに想像力や描写力に優れていたとも考えづらいし。
そう考えれば確かにどれも農場とかで繰り広げられてそうな光景である。
しかし・・・日本の亡霊の奥ゆかしさと比べると、やはりどうもついてゆきづらい。
お岩さんが伊衛門をひきずって走りまわり、パンチを数発喰らわした後、二人で踊りだしたら雰囲気ぶち壊しである。

他にも感覚的にどうしても理解できない事は数え上げればきりがないほどである。
これは民話が形作られた当時と、今との文化的、環境的なギャップによるものだろうが、それにしても説明しきれないものも多かった。
例えば「袋に入れ!」では、ある男が仙女に二つの望みをかなえてやると言われ、望んだものは「何でもたちどころに入る袋」と「意志通りになる棒」である。
前者はよく分かる。欲しい物があれば言えば袋の中に入るという、望みが永続的に叶う少し反則のアイテムだ。
問題は棒である。
作中で彼は棒を何度か用いているが、そのいずれもが、 先の袋の中に悪人(とか悪魔とか・・・)を入れ、「棒よ殴れ!」と命令しているのだ。
たった二つの望みのうちの一つを、彼は「自動人殴り機」で消費したのだ。
なぜ自分で殴らない!!!???
頭をかきむしりたくなる化夢宇留仁なのでした・・・(笑)。


 

宇宙からの帰還
立花隆

例によって古本屋さんの100円ワゴンセールで購入。
なんで手にとったかははっきりしないが、昔けっこう売れた本だし、過去の記憶のどこかに引っかかったのかもしれない。
同時にいつものTRPGトラベラーの資料になるかもしれないという思いは勿論あった。

さてこの本はアポロ計画あたりまでの宇宙飛行士へのインタビューがメインになっているのだが、これがなかなか面白かった。
この手のインタビューでは、アポロ13に代表されるような危機的状況や、歴史的瞬間における対応やその時の心境など、表面的な事柄が多いのだが、本作では著者が宗教に興味を持っているからか、もっと内面的な部分をクローズアップしているのだ。だから読んでいると、宇宙飛行士の本というより信仰のバリエーションと、その考察がテーマなのではないかとさえ思えてくる。
こう書くと難解な哲学書のような雰囲気だが、決してそういうわけではない。
むしろ非常に読みやすい万人向けの本である。 構成も気をつかっていて、冒頭ではいかにも読者の興味をひきそうな、初期の宇宙開発の経緯や、それに関したあまり一般的でない事柄を描写し、読み手がひきこまれたあたりで、とどめとばかりに宇宙飛行士の中でも変わり者の、これまた変わった体験談を披露している。
化夢宇留仁はこれに見事にはまったわけである。
その後ははっきりと切れ目があるわけではなく、 違和感無く本題のインタビューへと移ってゆく。

インタビューのテーマは、宇宙体験による内面的変化とその後の行動、そして宗教観の確立・・・であろうか。
内面的変化というのは、そもそも技術畑のエリートがほとんどを占めている宇宙飛行士達は、その体験を技術的、数学的には言い表せても、心象表現としてはまったく語られていないといってよく、その辺りをインタビューすることで聞き出そうという試みで、これが結構うまくいっている。宇宙飛行士それぞれが今まで言えなかった分を取り返すかのように、楽しげに応え、興味深い話を語っている。
その後の行動はいろいろだが、宇宙飛行士といえば(特に初期の飛行士達)大スターである。その知名度や技術を生かして、要職に着いているものも多い。
上院議員になった者、株で大金持ちになった者、会社の社長に納まった者、宗教家になった者、中には精神病院に収容された者までいる。

上に宗教家になった者がいると書いたが、そうでない者も宇宙体験である意味宗教的なインパクトを受けた者は多かった。と言うよりも一部の例外を除いて、ほとんどの者がそういう衝撃を受けたらしい。
衝撃の大きさに差はあるものの、その多くは創造神の存在を確信するに至っているのだ。
もともとキリスト教国のアメリカであるから、ある程度は納得も出来る。
あまりにも美しい地球を見、それが広い宇宙でも希少な存在であると感じた時、こんな物が偶然だけで出来るわけが無い、これは創造神が創りたもうたのだ!と感じるらしい。
ただ面白いのはその先の解釈は必ずしもキリスト教に限らないという点だ。
人格神ではなく、一種のパターンのようなものと定義づけする者もいれば、人格神がいるがそれがキリスト教の神に限ったものでなく、全ての宗教はこの唯一の存在を足らない言葉で説明したものだと言う者、精霊信仰のようなものもあれば、人間が神に到達する途中の段階だという者もいる。
これでは変な宗教家の集団のようだが、そこは宇宙飛行士、科学者としても第一線の元々数学的思考が得意な皆さんである。誰も彼も具体的かつ科学的に説明していて非常に面白いのだ、これが。
例えば進化論にしても、創造神の存在を肯定してしまうと無理が出そうなものだが、科学が進歩すればそれが両立できることも証明されると言う者もいれば、今生きている生物は今の形、化石は化石として創造されたと言うものもいたりする。
愉快である。
化夢宇留仁は当ホームページ屁理屈コラムで「全ては科学によって説明がつく」という駄文を書いたが、同じような意見をもった何人かの宇宙飛行士が、それぞれ具体的で説得力のある意見を出しているのも面白かった。
例えば神の存在を信じる一人は、科学とは神の創った世界に人間がアプローチする手段であると言っている。
面白い。

と・・・・こんな感じで興味深い内容だった。
またここでは触れなかったがもっと週刊誌的(?)な、宇宙飛行士たちの裏話なんかもゴロゴロしていて楽しく読めた。
古本屋さんで100円ワゴンで見つけたら買いでしょう(笑)。


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